水道路

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海岸橋
これは毎日通る海岸橋の上流の風景

鉄管橋
寄ってみると青に塗られた鉄管がある
毎度通るたびにあれは何だろうと思っていたのです。
それも12~13年ほど。

ある時材木座在住の昭和15年生まれの男性からそのことについて教えてもらいました。

「あれは、横須賀の軍港に上水道を送っている水道管で我々は昔から鉄管橋と呼んでいたんだよ。」

「子どもの頃、店から出た木の板を使ってね、鉄管の上に板を貼って敷き詰めたのさ。
第一小学校にはその橋の上を通って行ったもんさ。」

男性が子供の頃とのことで年代的には昭和20年代前半のことでしょう。
親を手伝って子供が後ろから木の板を渡して、少しずつ近所の子供たちが通れる橋を作ってゆく・・・風景が目に浮かびます。

さて、時代はさかのぼって黒船が来航した幕末。
司馬遼太郎が明治の父と評した男、小栗上野介。

当時、江戸から横須賀までひとすじの小道が通じていた。小栗は、この道を何度も馬で往復した。
あるとき、小栗は、路傍で外国方の栗本瀬兵衛を見かけ、<瀬兵衛どの、瀬兵衛どの>と馬上からよびかけた。
小栗のその明るい声が、明治後、新聞人になった栗本鋤雲にとって、終生わすれられないものだったという。
<これで、たとえ(幕府が)売り物になっても、蔵つきになります>
小栗上野介の有名なことばである。馬上にいるのはもはや幕府中心主義者の小栗ではなかった。
一個の日本人だった。(司馬遼太郎『街道をゆく 42 三浦半島記』)

小栗上野介のあらましは以下の通りです。
安政7(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、正使の新見正興と共にアメリカの軍艦ポーハタン号に乗船しワシントンD.C.へと向かいます。
この時、咸臨丸も派遣されており、そこには勝海舟やジョン万次郎、福澤諭吉らも乗っていました。

フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直し交渉を行い、その後ワシントン海軍工廠の視察などを果たすなど渡米から見識を広めたようです。

アメリカから帰国した小栗は、その功により外国奉行に任ぜられ、その後は勘定奉行も務めます。
ワシントンD.C.で海軍工廠を見学した小栗は、日本との技術力の差を痛感していました。
彼はこの時製鉄所を造る提言をし、周囲を驚かせるのです。
そして日本も欧米に後れを取らないよう、近代化への投資として製鉄所の建設を進言したのです。

当初幕府の財政は厳しく、反対の声が挙がりました。
しかし将軍・徳川家茂が小栗の案を容れたため、横須賀製鉄所が建設されることになったのです。
小栗はフランスの協力を取り付け、経済や軍事面でフランスに接近を図りました。

この時横須賀製鉄所の建設に貢献したのがフランス人技師・ヴェルニーです。

大政奉還の翌年、小栗は罷免され上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市)の東善寺に移り住み隠居生活に入ります。しかし新政府軍がやって来て小栗は捕らわれ、取り調べもないまま処刑されてしまったのです。

その後、維新により横須賀製鉄所の建設が中断しますが、横須賀が天然の入り江をもち水深が十分にある良港に向いていたため、造船所と軍港の建設の計画が進められます。
元帥海軍大将・東郷平八郎が語ったところによると
「日本海海戦で勝てたのは、(製鉄所と造船所を造った)小栗氏のおかげです」と述べたそうです。

 横須賀における水道施設は、明治初期に既に敷設され、国内でも早期の近代水道施設である。
幕末期、江戸幕府は黒船襲来に際して鎖国を改め、横須賀製鉄所を建設した。
これは倒幕後に横須賀造船所となり、施設は明治政府に引き継がれ、横須賀海軍工廠となった。
事業の発展による水不足のため、造船所首長ヴェルニーの手により、1874年(明治7年)から1876年(明治9年)にかけて走水から最初の水道が完成した(走水水道)

wikipedia.org横須賀水道より

横須賀水道マップ
 
By Swirliehead – 本人作成(包括自治体区画図 14000.svgを使用), GFDL-no-disclaimers, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2338338

この図は横須賀水道の水源マップです。

 日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。
海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。

(中略)

この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。

愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。

海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。

鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。
なお、この半原系統の取水は、需要の減少、水質の悪化、施設の老朽化に伴い2007年(平成19年)4月より停止され、2015年(平成27年)2月28日をもって廃止された。
wikipedia.org横須賀水道より

男性によると主に相模川から取水したこの横須賀水道があるため、神奈川のあちこちに「水道道」「水道路」「水道みち」という地名があるそうです。
普段何気に通っている交差点名にもこんな由来があったんですね。

水道路交差点北方面
これは水道路交差点の北方面の画像

水道路交差点南方面
これは水道路交差点南方面の画像

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